愛していると言ってくれ
1995年の夏、TBS系で放送されたドラマ。
豊川悦司と常盤貴子。回がすすむごとに、ふたりの名演技が冴えていく。
7歳の時耳が聞こえなくなった画家を演じる豊川と上京して3年目の女優志望役の常盤が出会うという恋愛ドラマ。ふたりの演技あってのドラマ。
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半分あたりまでしかまだ見ていないけれど、このドラマもいろんなことを考えさせてくれる。
映画にしろドラマにしろ、これまで生きてきた人生の中でどの作品が一番心に残っているだろうかと、頭の記憶と心の記憶をたどってみた。
感動したとかショックを受けたものが心の記憶にどのくらい強く残っているのかを考えてみたら、心の中って喜怒哀楽で部屋分かれているのかと思ってしまった。
観て楽しいかったもの、、悲しさがこちらにまで伝わってくるような感動ともの悲しかったもの、怒りを覚えたもの、ひと恋しさ(世界中のひとがすべて善人に思えるような)を感じたもの、どうもそれぞれ記憶にとどまる場所が違うのか、その中で一番、ひとつだけあげるとすればどの映画と聞かれると、決まらなかったりする。
実は悲しくなるような映画とかドラマって嫌いだ。
そう思いながらも、みてしまう。
嫌いなのにどうして観るの?
たぶん、ボクも人並みに残酷な気持を持っているからなのかも知れない。うえのドラマのように、あるいは最近のタイヨウのうたのように、どうしようもない苦しみを抱えて人生送る主人公が登場する話を観て、「あぁ可哀そう」と思えるのは、自分がその立場にないからだろうから。
でもその一方で、ボクだけでなく、誰でも大なり小なり何らかの苦痛をしょって生きているわけだけれど、ドラマの主人公のかかえる降ろすことのできない荷に比べれば、こちらが苦痛だと思うことなんか苦痛だと言うのもおこがましい。 だから、解決しようのない苦痛に屈することなく前を向いて生きていこうとするその姿勢を見習おうという勇気を奮い起こす糧になる。
なら、何が嫌いなの?
見習おうとする勇気をありがとうという気持の隅っこで、でもボクにのしかかる苦労は彼らのに比べるとどうこう思う一方で、ボクは元気さという自分の幸せぶりをどこかで優越感に変えている気がしてしょうがない。
病気や苦難という障害を考えずに、人生をあゆんでいく上下角度は30~45度で維持したいと思うとき、ほら、あなたはこんなに幸せじゃないの、なのにちょっとしたことでくよくよするんじゃないよという言葉を、自分よりも不幸な境遇にあるひとたちの人生をひきあいにして頑張るんだと言われたときって、言い返せない分、無性に腹が立つこともある。江戸時代の士農工商のお百姓さんじゃないっつうの、っていうレベルの低い比較からではなく、頑張りが足りなかったことや頑張れない自分に対する腹立ち。
商業主義が嫌らしくドラマの中で顔をのぞかす、そこまで描写する必要もないパパラッチなシーン。モロそのままな描写はインパクト強いけれど、その分そのままを現実にアクションとることは、観たときはもやもやっとした感触がどこか心を零下麻痺させるような種を植え付ける一連のシーンからある日デジャブーな経験で無意識にしてはいけないことをしてしまっている場合と比べ、少ないんじゃないだろうか。
人から、普通とはちょっと違った目でみられる。
これって、そういうつもりでみたんじゃないとこちらが思っても、相手からすると、そう思ってもらえない場合とかもあるから、相手だけでなくこちらも辛いときってある。
好奇の目でみられることのいごこちの悪さを実感してみるには、アメリカなどの日本人がすくない土地へいくといいだろう。
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